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麻田陣屋

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★★★城のデータ★★★ [所在地] 大阪府豊中市蛍池中町 [築城年] 1615年 [築城者] 青木一重 [遺 構] なし [別 称] - [形 状] 陣屋 蛍池公民館にあった江戸時代の麻田藩・青木氏1万石の陣屋です。青木氏は大坂の陣で豊臣方でしたが、戦後徳川家康に召し出され陣屋を構えました。陣屋は本丸に御殿、勤務所、炊事場などがあり、内堀の周囲には家臣団の屋敷が構えられたといいます。現在は市街地化により遺構は不明です。蛍池公民館の一角に石碑と説明板があり、市内には移築門が現存するようです。 麻田藩旧蹟碑 蛍池公民館にたつ旧蹟碑(工事中) 麻田藩陣屋跡説明板

苗木城

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★★★城のデータ★★★ [所在地] 岐阜県中津川市苗木 [築城年] 天文年間(1532~55年)? [築城者] 遠山氏 [遺 構] 石垣、堀、井戸など [別 称] 赤壁城 [形 状] 山城 築城については諸説ありますが、遠山七家のうち苗木遠山氏によって築かれたといわれます。豊臣氏に逆らい城を一時追われますが、関ヶ原の戦いで遠山友政が奪回し旧領を回復します。以降遠山氏が1万500石の苗木藩として、幕末に至るまで居城としました。 木曽川北岸の城山山頂に築かれ、むぎだしの岩盤が露出した地形を利用し、曲輪を築いた独特の景観を示す堅固な山城です。懸造で築造された往時の城は土壁のくすんだ赤い壁であったため、「赤壁城」の異名を持ちます。また、本丸は巨岩自体が天守台の一部という極めて異例の遺構が残ります。 天守台 木曽川ごしに苗木城を望む(中央左側) 城山全景 風吹門跡 大矢倉跡 大矢倉跡石垣 二の丸御殿跡 坂下門跡 本丸口門跡 本丸石垣と天守台 武器蔵・具足蔵跡 玄関口門跡 天守台の巨石 馬洗岩 本丸から恵那山を望む

飯羽間城

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★★★城のデータ★★★ [所在地] 岐阜県恵那市岩村町飯羽間 [築城年] 不明 [築城者] 遠山氏 [遺 構] 曲輪 [別 称] - [形 状] 平山城 美濃遠山七家の飯羽間遠山氏の居城で、織田氏と武田氏の争奪の場となり、1574年に武田勝頼の東美濃侵攻の際には落城しています。 飯羽間川が形成した高さ約20mの独立丘陵上に曲輪群を展開しており、山頂部の曲輪は東西に三段連なっています。明確な堀切、土塁、虎口は見られず、急峻な地形を利用した切岸に防御を頼った城です。 飯羽間城全景 帯曲輪切岸 主郭 主郭にたつ諸将士供養塔 二の郭 三の郭から遠望

岩村城

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★★★城のデータ★★★ [所在地] 岐阜県恵那市岩村町岩村 [築城年] 1185年 [築城者] 加藤景廉 [遺 構] 石垣、曲輪など [別 称] 霞ヶ城 [形 状] 山城 室町・戦国期に美濃遠山七家の岩村遠山氏の本拠とした山城です。織田氏と武田氏の激しい抗争の場となり、1572年武田方の秋山虎繁が開城させますが、1575年に織田軍の攻撃を受け落城します。その後、川尻氏、森氏らが岩村城に入り近世城郭として改修されます。1601年には大給松平氏が入り城下町の整備を行っています。 標高721mの城山山頂に本丸が置かれ、二の丸、八幡曲輪などが階段状に配置されています。城内に現存建物はありませんが、日本三大山城に相応しい見事な石垣が残ります。山麓の居館跡には表御門と太鼓櫓が復元されています。また、残された城郭建物として、市内の徳祥寺に移築された土岐門があります。 復元された太鼓櫓と表門 表門と太鼓櫓(城外から見る) 表門 藩校・知新館正門 一の門跡 土岐門跡 追手門跡 追手三重櫓石垣 霧ヶ井 本丸六段の石垣 本丸六段の石垣 本丸東側の石垣 本丸長局埋門(本丸表門)跡 本丸埋門(本丸裏門)跡 本丸西側の石垣 出丸跡 南曲輪の堀切 徳祥寺に移築された土岐門

鳶ヶ巣山砦

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★★★城のデータ★★★ [所在地] 愛知県新城市乗本 [築城年] 1575年 [築城者] 武田信実 [遺 構] 曲輪 [別 称] - [形 状] 陣城 1575年、武田軍の長篠城攻めの際、宇連川をはさんだ丘陵地帯に築いた乗本五砦の中心的砦です。武田信玄の弟である信実が砦を守りました。徳川方の酒井忠次ら別動隊の奇襲攻撃をかけられ、激戦が展開されますが、ついには信実以下ことごとく戦死しました。 砦からは長篠城を眼下に望むことができ、城内の様子を把握することができました。また、武田勝頼が本陣を構えた医王寺山も見通すことができます。 丘陵山頂付近 山頂付近にたてられた旗 長篠城を望む(中央左側あたり) 戦没将士之墓

医王寺城

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★★★城のデータ★★★ [所在地] 愛知県新城市長篠 [築城年] 1575年 [築城者] 武田勝頼 [遺 構] 曲輪 [別 称] - [形 状] 陣城 1575年、武田勝頼が長篠城攻略のために医王寺の裏山に築かれました。標高約120mの医王寺山に築かれており、攻撃する長篠城に加えて、方位する武田軍の各陣を見渡せる立地でした。記録ではここに約3000人が常駐したと伝わります。 頂部に曲輪が確認されており臨時の陣城だったことがわかります。現在は物見台が設置されており、長篠城を眼下に望むことができます。 陣城があった医王寺山 山頂付近 武田勝頼本陣説明板 長篠城を望む