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沼田城

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[所在地] 群馬県沼田市西倉内町 [築城年] 1532年 [築城者] 沼田顕泰、真田昌幸 [遺 構] 土塁、堀、石垣など [別 称] 倉内城 [形 状] 平山城 沼田城は1532年に沼田顕泰が築いて本拠としたといわれます。戦国時代には上杉氏、北条氏、武田氏の争奪戦が繰り広げられました。武田勝頼の家臣だった真田昌幸が沼田城を攻略し、北条氏滅亡後に嫡男の信之に与えられます。1600年の関ヶ原の戦いでは信之は東軍につき、上田の所領とあわせ真田家の当主となります。 沼田藩は 真田の分家として独立しますが、信利の時代に取り潰され、城が取り壊されます。その後幕府直轄領、本多氏、黒田氏を経て土岐氏を経て明治に至ります。 現在の沼田城は沼田公園として整備されています。利根英霊殿付近にはかつて四重五階の天守がありました。公園の中心の庭園が本丸跡で、沼田のシンボルである鐘楼が復元されています。本丸西側に残されている西櫓台の石垣はわずかに残された遺構の一つで、内側の石垣と石段は発掘調査で新たに見つかったものです。公園の入口近くに本丸堀跡が一部残っていて、一部石垣も残っています。現在は広場になっている二の丸、三の丸跡には土塁が残っています。 西櫓台の石垣と石段 西櫓台の石垣と石段 西櫓台の石垣 西櫓台の石垣 本丸跡 鐘楼 利根英霊殿(天守跡) 本丸堀跡 本丸堀跡の石垣 平八石 (真田昌幸が沼田平八郎の首実検をしてこの石に置いたと伝わる) 二の丸の土塁 三の丸の土塁 市内の天守イラスト看板

葛西城

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[所在地] 東京都葛飾区青戸 [築城年] 15世紀中頃 [築城者] 山内上杉氏(大石石見守) [遺 構] なし [別 称] 青戸御殿 [形 状] 平城 15世紀以後、関東管領山内上杉氏が政所を置いた青戸を防衛するために葛西城を築いたといわれます。戦国時代には武蔵から下総への拠点として重視され、1538年に北条氏綱が葛西城を奪います。1590年の豊臣秀吉の小田原平定で落城し、廃城となりました。徳川家康が江戸に入った後、城跡に葛西御殿と呼ばれる休憩所が建てられ将軍家が鷹狩を行う宿舎として利用されました。 現在城跡の主郭付近は環七通りを挟んで西側の御殿山公園と東側の葛西城址公園に二分されています。両公園には葛西城を示す説明板や 青砥藤綱(鎌倉時代の武士) 城跡碑などがたっています。また、城跡の鬼門(北東)方向に延命寺があり、青砥藤綱がここに摩 怛 梨天を守護神として置いたという伝説があります。 御殿山公園 葛西城跡説明板 青砥藤綱城跡碑 葛西城址公園 葛西城址公園にたつ葛西城跡説明板 城跡は環状7号線で分断(手前側が御殿山公園、奥側が葛西城址公園) 延命寺 中川

飯野陣屋

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[所在地] 千葉県富津市下飯野 [築城年] 1648年 [築城者] 保科正貞 [遺 構] 土塁、堀など [別 称] なし [形 状] 陣屋 諸国流浪していた 保科正貞が 1629年に幕臣となり、上総飯野を与えられ、その後加増を受け1648年に1万7000石の大名として立藩し、飯野陣屋を築城します。歴代の藩主は大阪在勤が多く、所領も関西に多くあったため飯野陣屋には代官を置いていたようです。 全体規模は東西約350m、南北280mもあり、本丸・二の丸・三の丸がある内邸(うちやしき)と西側の外邸(そとやしき)に分かれていました。 内邸は幅5〜6mの外堀と高さ約2mの土塁に囲まれ本丸東側に大手門がありました。大手口は折れを複雑に設けた枡形でした。 現在も四周に巡る外堀と土塁が完存しており、 越前・敦賀陣屋、長州・徳山陣屋と並ぶ日本最大陣屋の一つと称された陣屋を実感させてくれます。本丸には現在飯野神社が鎮座しており、三の丸内には物見台的な役割を果たした三条塚古墳があります。 本丸東側の堀 三の丸北側の堀 二の丸東側の堀 二の丸跡(奥の林は稲荷塚古墳) 大手口跡と飯野陣屋濠跡碑 飯野神社 飯野陣屋濠跡説明板 三の丸南側の堀 亀塚古墳と牢屋跡 三の丸内にある三条塚古墳

佐貫城

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[所在地] 千葉県富津市佐貫 [築城年] 応仁年間(1467〜69年) [築城者] 武田(真里谷)義広 [遺 構] 空堀、土塁、石垣など [別 称] 亀城 [形 状] 平山城 佐貫城は応仁年間に上総の真里谷城を本拠とする武田(真里谷)氏が築いたとされます。戦国期には里見氏の支配下に入り、久留里城とともに北条氏へ対抗する重要な拠点でした 。1590年に北条氏が滅亡すると、里見氏は安房一国に減封となり、佐貫城は徳川家康の家臣である内藤氏が在城します。その後松平氏、柳沢氏、阿部氏などが城主となり明治を迎えます。 城は南北を川に挟まれた標高約60mの丘陵地に築かれ、自然地形を活かした切岸と空堀で守られた城です。山頂部の本丸を中心に、二の丸、三の丸が配置された連郭式の配置です。山麓付近の三の丸南側が大手口で唯一の石垣の櫓台が残ります。三の丸は広く南北に3段となっています。二の丸は東西に2段となっており、東側の郭の虎口部は左右から横矢がかかるようになっています。二の丸と本丸とは巨大な空堀で隔てられており、唯一土橋でつながっています。本丸から北と西側に突出した曲輪があり、共に物見台として利用されていたようです。 大手口の櫓台石垣 大手口 佐貫城跡説明板 麓から城山を望む 三の丸南西櫓台跡 三の丸跡 二の丸と帯曲輪間の切岸 二の丸の虎口跡 本丸につながる土橋 本丸を囲む空堀跡 本丸跡 八幡曲輪の東展望台から遠望 内藤家長の墓 旧勝隆寺・内藤家長の墓

幸手城

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[所在地] 埼玉県幸手市中 [築城年] 1455年 [築城者] 一色頼氏 [遺 構] なし [別 称] 田宮城、一色館、一色氏館 [形 状] 平城 幸手駅付近は裏町と呼ばれ、城山または陣屋という地名が伝わっており、かつてこの一帯は古河公方・足利氏の家臣である一色氏が拠点とした幸手城があったといわれます。一色直朝の子・義直は小田原の北条氏没落後は徳川家康に仕え、1591年には幸手のうち5160石を与えられました。 現在は遺構は残されていませんが、城の南東方向に祀られている陣屋稲荷は一色氏の守り神として祀られたと伝わります。また、近隣に一色氏館の鬼門方向に天神神社が、一色氏発願の祈願寺として建立された万福寺など、一色氏に関わる寺社があります。 一色稲荷神社 幸手城跡と陣屋稲荷の説明板 一色氏創建の天神神社 一色氏発願の祈願寺・万福寺

堺台場

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[所在地] 大阪府堺市堺区大浜北町他 [築城年] 1855年 [築城者] 徳川幕府 [遺 構] 石垣、土塁、横堀 [別 称] 堺南台場、堺北台場 [形 状] 台場 江戸時代末期、外国船に対する港湾防備のため、全国各地に石垣を築き、大砲を設置した砲台場が造られました。堺でも大阪湾防備のため、1855年頃から旧堺港の南北に砲台場が造られ、1866年には様式の砲台場に大改築が行われます。南北295m、東西195m、北・西・南側は石垣を築き、一部に堀を設け、東側は防波堤が利用されました。大砲は18門備えていました。 現在台場跡は大浜公園となっており、公園の外周部に石垣が良好に残っているほか、公園の南側に外堀が整備されています。北・西側の石垣の上部は土塁となっており(腰巻石垣)、あわせた高さはかなりあり迫力があります。 石垣 石垣 石垣 石垣の矢穴跡 大浜北公園(台場の内側) 御台場の石垣と外堀説明板 石垣と外堀 外堀