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行方氏館

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[所在地] 東京都大田区蒲田 [築城年] 戦国時代 [築城者] 行方直清 [遺 構] なし [別 称] なし [形 状] 平城 行方氏館は、戦国時代に北条氏の家臣で六郷領を支配していた行方直清により築かれたとされます。 直清は 1590年の豊臣秀吉による小田原征伐の際に討ち死にしたと伝えられます。 屋敷跡は直清の弟(日芸)が開いた円頓寺となっており、 館としての遺構は残っていませんが、 行方弾正直清供養塔があります。近隣の六郷殿館と同じく、呑川を堀として利用していたようです。 館跡とされる円頓 寺 行方弾正直清之墓 行方弾正直清供養塔の説明板 円頓寺由緒碑

六郷殿館

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[所在地] 東京都大田区蒲田 [築城年] 天文年間(1532〜1555年) ? [築城者] 上杉憲幸 [遺 構] なし [別 称] なし [形 状] 平城 上杉憲幸は関東管領・山内上杉憲政の子であり、北条氏により攻められた後は 北条氏傘下に下り、六郷殿の所領とともにこの地に居館を構えたとされます。 都市化により遺構は残されておらず、現在の蒲田小学校や 青巒寺(せいらんじ)付近が館跡とのことです。すぐ南側に呑川が流れており、天然の堀としていた可能性があります。 館跡付近とされる 青巒寺 付近を流れる呑川

沼田城

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[所在地] 群馬県沼田市西倉内町 [築城年] 1532年 [築城者] 沼田顕泰、真田昌幸 [遺 構] 土塁、堀、石垣など [別 称] 倉内城 [形 状] 平山城 沼田城は1532年に沼田顕泰が築いて本拠としたといわれます。戦国時代には上杉氏、北条氏、武田氏の争奪戦が繰り広げられました。武田勝頼の家臣だった真田昌幸が沼田城を攻略し、北条氏滅亡後に嫡男の信之に与えられます。1600年の関ヶ原の戦いでは信之は東軍につき、上田の所領とあわせ真田家の当主となります。 沼田藩は 真田の分家として独立しますが、信利の時代に取り潰され、城が取り壊されます。その後幕府直轄領、本多氏、黒田氏を経て土岐氏を経て明治に至ります。 現在の沼田城は沼田公園として整備されています。利根英霊殿付近にはかつて四重五階の天守がありました。公園の中心の庭園が本丸跡で、沼田のシンボルである鐘楼が復元されています。本丸西側に残されている西櫓台の石垣はわずかに残された遺構の一つで、内側の石垣と石段は発掘調査で新たに見つかったものです。公園の入口近くに本丸堀跡が一部残っていて、一部石垣も残っています。現在は広場になっている二の丸、三の丸跡には土塁が残っています。 西櫓台の石垣と石段 西櫓台の石垣と石段 西櫓台の石垣 西櫓台の石垣 本丸跡 鐘楼 利根英霊殿(天守跡) 本丸堀跡 本丸堀跡の石垣 平八石 (真田昌幸が沼田平八郎の首実検をしてこの石に置いたと伝わる) 二の丸の土塁 三の丸の土塁 市内の天守イラスト看板

葛西城

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[所在地] 東京都葛飾区青戸 [築城年] 15世紀中頃 [築城者] 山内上杉氏(大石石見守) [遺 構] なし [別 称] 青戸御殿 [形 状] 平城 15世紀以後、関東管領山内上杉氏が政所を置いた青戸を防衛するために葛西城を築いたといわれます。戦国時代には武蔵から下総への拠点として重視され、1538年に北条氏綱が葛西城を奪います。1590年の豊臣秀吉の小田原平定で落城し、廃城となりました。徳川家康が江戸に入った後、城跡に葛西御殿と呼ばれる休憩所が建てられ将軍家が鷹狩を行う宿舎として利用されました。 現在城跡の主郭付近は環七通りを挟んで西側の御殿山公園と東側の葛西城址公園に二分されています。両公園には葛西城を示す説明板や 青砥藤綱(鎌倉時代の武士) 城跡碑などがたっています。また、城跡の鬼門(北東)方向に延命寺があり、青砥藤綱がここに摩 怛 梨天を守護神として置いたという伝説があります。 御殿山公園 葛西城跡説明板 青砥藤綱城跡碑 葛西城址公園 葛西城址公園にたつ葛西城跡説明板 城跡は環状7号線で分断(手前側が御殿山公園、奥側が葛西城址公園) 延命寺 中川

飯野陣屋

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[所在地] 千葉県富津市下飯野 [築城年] 1648年 [築城者] 保科正貞 [遺 構] 土塁、堀など [別 称] なし [形 状] 陣屋 諸国流浪していた 保科正貞が 1629年に幕臣となり、上総飯野を与えられ、その後加増を受け1648年に1万7000石の大名として立藩し、飯野陣屋を築城します。歴代の藩主は大阪在勤が多く、所領も関西に多くあったため飯野陣屋には代官を置いていたようです。 全体規模は東西約350m、南北280mもあり、本丸・二の丸・三の丸がある内邸(うちやしき)と西側の外邸(そとやしき)に分かれていました。 内邸は幅5〜6mの外堀と高さ約2mの土塁に囲まれ本丸東側に大手門がありました。大手口は折れを複雑に設けた枡形でした。 現在も四周に巡る外堀と土塁が完存しており、 越前・敦賀陣屋、長州・徳山陣屋と並ぶ日本最大陣屋の一つと称された陣屋を実感させてくれます。本丸には現在飯野神社が鎮座しており、三の丸内には物見台的な役割を果たした三条塚古墳があります。 本丸東側の堀 三の丸北側の堀 二の丸東側の堀 二の丸跡(奥の林は稲荷塚古墳) 大手口跡と飯野陣屋濠跡碑 飯野神社 飯野陣屋濠跡説明板 三の丸南側の堀 亀塚古墳と牢屋跡 三の丸内にある三条塚古墳

佐貫城

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[所在地] 千葉県富津市佐貫 [築城年] 応仁年間(1467〜69年) [築城者] 武田(真里谷)義広 [遺 構] 空堀、土塁、石垣など [別 称] 亀城 [形 状] 平山城 佐貫城は応仁年間に上総の真里谷城を本拠とする武田(真里谷)氏が築いたとされます。戦国期には里見氏の支配下に入り、久留里城とともに北条氏へ対抗する重要な拠点でした 。1590年に北条氏が滅亡すると、里見氏は安房一国に減封となり、佐貫城は徳川家康の家臣である内藤氏が在城します。その後松平氏、柳沢氏、阿部氏などが城主となり明治を迎えます。 城は南北を川に挟まれた標高約60mの丘陵地に築かれ、自然地形を活かした切岸と空堀で守られた城です。山頂部の本丸を中心に、二の丸、三の丸が配置された連郭式の配置です。山麓付近の三の丸南側が大手口で唯一の石垣の櫓台が残ります。三の丸は広く南北に3段となっています。二の丸は東西に2段となっており、東側の郭の虎口部は左右から横矢がかかるようになっています。二の丸と本丸とは巨大な空堀で隔てられており、唯一土橋でつながっています。本丸から北と西側に突出した曲輪があり、共に物見台として利用されていたようです。 大手口の櫓台石垣 大手口 佐貫城跡説明板 麓から城山を望む 三の丸南西櫓台跡 三の丸跡 二の丸と帯曲輪間の切岸 二の丸の虎口跡 本丸につながる土橋 本丸を囲む空堀跡 本丸跡 八幡曲輪の東展望台から遠望 内藤家長の墓 旧勝隆寺・内藤家長の墓