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山形城

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[所在地] 山形県山形市霞城町 [築城年] 1357年、1592年、1622年 [築城者] 斯波兼頼、最上義光、鳥居忠政 [遺 構] 石垣、堀など [別 称] 霞城、霞ヶ城、最上城、大山城 [形 状] 平城 南北朝時代に斯波兼頼によって築かれ、戦国期に斯波氏の子孫である最上氏が城主となります。関ヶ原の戦い後、最上義光は出羽国57万石の拠点として城の大改修を行います。最上氏が改易された後は鳥居忠政が20万石で入り、更に改修を行いますが、その後は小規模の譜代大名が代々城主となり、明治を迎えます。 山形城は三重の堀に囲まれた完全な平城でその規模は東北随一です。 現在も本丸、二の丸の水堀、土塁、石垣などが良好に現存しています。特に二の丸の東西南北4ヶ所の虎口の石垣は必見です。また、平成3年に二の丸東大手門(櫓門、高麗門)が、平成15年に本丸一文字門石垣、平成17年に大手橋、平成26年に高麗門、枡形土塀が復元されるなど、 城の整備が順次進められています。 二の丸東大手門の櫓門 二の丸東大手門の櫓門 二の丸東大手門の櫓門内部 二の丸東大手門の高麗門(左)と櫓門(右) 二の丸東大手門の高麗門 二の丸東大手門の多門櫓(左)と高麗門(右) 二の丸東大手門付近の水堀 最上義光騎馬像 本丸一文字門前の大手橋と高麗門 本丸一文字門前の大手橋と空堀 本丸一文字門の高麗門 本丸一文字門横の石垣 本丸一文字門の高麗門(城内側) 本丸一文字門の枡形虎口 本丸西側の土塁と空堀 二の丸南大手門跡 二の丸南大手門跡付近の水堀 二の丸南大手門跡の石垣 二の丸南大手門跡の枡形虎口 二の丸南大手門跡の雁木

富山城

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[所在地] 富山県富山市丸の内 [築城年] 1543年 [築城者] 神保長職 [遺 構] 石垣、堀など [別 称] 安住城、浮城 [形 状] 平城 富山城は室町時代に越中西部の守護代であった神保氏が築いた城です。1571年上杉謙信の越中侵攻時に奪われるも、謙信死去後に神保長住が取り戻し、城主となった佐々成政により大改修が行われます。1585年には豊臣秀吉の10万の大軍に囲まれ、降伏・開城しています。その後、1597年に前田利長の隠居城として、1639年に加賀前田藩の分家として前田利次が富山藩を立藩し城の整備がされました。 神通川を天然の堀とし、方形の本丸と4つの曲輪、広大な水堀で囲まれた平城でした。現在は本丸と西出丸の一部、水堀が残されています。現在の天守は1954年に建設された模擬天守ですが、鉄御門枡形の石垣のうち、5つの鏡石は必見です。2008年に千歳御門が本丸東側に再移築され、城の整備が進められています。 水堀と模擬天守 水堀と模擬天守 鉄御門枡形の石垣 鉄御門枡形の石垣 鉄御門枡形の鏡石 鉄御門枡形の石垣 鉄御門枡形の雁木 本丸跡と模擬天守 千歳御門 千歳御門と石垣 西出丸南側の水堀 西出丸跡(富山城址公園・芝生広場) 搦手門跡 富山城址新旧比較図

八幡塚砦

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[所在地] 東京都大田区東六郷 [築城年] 永禄年間(1558〜1570年) [築城者] 行方明連 [遺 構] なし [別 称] 八幡塚行方氏館 [形 状] 平城 1569年に武田信玄が小田原城に進軍した際に、この地の領主であった行方氏が八幡塚の地に城塞を築き、戦闘があったといわれますが、武田軍の通過を否定する説もあり定かではありません。 六郷神社付近が砦跡とされ、遺構は残されていませんが、梶原景時が寄進した神橋、源頼朝の手水石など由緒ある神社です。 砦跡とされる六郷神社 梶原景時が寄進したといわれる神橋 源頼朝公寄進の手水石 六郷神社社殿

斎藤氏館

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[所在地] 東京都大田区蒲田 [築城年] 永禄年間(1558〜1570年) [築城者] 斎藤 政賢 [遺 構] なし [別 称] なし [形 状] 居館 京急蒲田駅近くの妙安寺は、北条氏の家臣であった行方義安の後室・妙案尼が、義安の死後に兄の斎藤政賢の館内に庵を結んだことに始まると寺伝に残されています。妙安寺の入口付近に 妙安尼供養塔がたっています。 現在館の遺構は残されていませんが、妙安寺と蒲田八幡神社付近が斎藤氏の居館であった可能性が高いと考えられています。 館跡とされる 妙安寺 妙安尼供養塔 妙安尼供養塔の説明板 妙安寺七面堂(左)と境内

行方氏館

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[所在地] 東京都大田区蒲田 [築城年] 戦国時代 [築城者] 行方直清 [遺 構] なし [別 称] なし [形 状] 居館 行方氏館は、戦国時代に北条氏の家臣で六郷領を支配していた行方直清により築かれたとされます。 直清は 1590年の豊臣秀吉による小田原征伐の際に討ち死にしたと伝えられます。 屋敷跡は直清の弟(日芸)が開いた円頓寺となっており、 館としての遺構は残っていませんが、 行方弾正直清供養塔があります。近隣の六郷殿館と同じく、呑川を堀として利用していたようです。 館跡とされる円頓 寺 行方弾正直清之墓 行方弾正直清供養塔の説明板 円頓寺由緒碑

六郷殿館

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[所在地] 東京都大田区蒲田 [築城年] 天文年間(1532〜1555年) ? [築城者] 上杉憲幸 [遺 構] なし [別 称] なし [形 状] 居館 上杉憲幸は関東管領・山内上杉憲政の子であり、北条氏により攻められた後は 北条氏傘下に下り、六郷殿の所領とともにこの地に居館を構えたとされます。 都市化により遺構は残されておらず、現在の蒲田小学校や 青巒寺(せいらんじ)付近が館跡とのことです。すぐ南側に呑川が流れており、天然の堀としていた可能性があります。 館跡付近とされる 青巒寺 付近を流れる呑川

沼田城

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[所在地] 群馬県沼田市西倉内町 [築城年] 1532年 [築城者] 沼田顕泰、真田昌幸 [遺 構] 土塁、堀、石垣など [別 称] 倉内城 [形 状] 平山城 沼田城は1532年に沼田顕泰が築いて本拠としたといわれます。戦国時代には上杉氏、北条氏、武田氏の争奪戦が繰り広げられました。武田勝頼の家臣だった真田昌幸が沼田城を攻略し、北条氏滅亡後に嫡男の信之に与えられます。1600年の関ヶ原の戦いでは信之は東軍につき、上田の所領とあわせ真田家の当主となります。 沼田藩は 真田の分家として独立しますが、信利の時代に取り潰され、城が取り壊されます。その後幕府直轄領、本多氏、黒田氏を経て土岐氏を経て明治に至ります。 現在の沼田城は沼田公園として整備されています。利根英霊殿付近にはかつて四重五階の天守がありました。公園の中心の庭園が本丸跡で、沼田のシンボルである鐘楼が復元されています。本丸西側に残されている西櫓台の石垣はわずかに残された遺構の一つで、内側の石垣と石段は発掘調査で新たに見つかったものです。公園の入口近くに本丸堀跡が一部残っていて、一部石垣も残っています。現在は広場になっている二の丸、三の丸跡には土塁が残っています。 西櫓台の石垣と石段 西櫓台の石垣と石段 西櫓台の石垣 西櫓台の石垣 本丸跡 鐘楼 利根英霊殿(天守跡) 本丸堀跡 本丸堀跡の石垣 平八石 (真田昌幸が沼田平八郎の首実検をしてこの石に置いたと伝わる) 二の丸の土塁 三の丸の土塁 市内の天守イラスト看板