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八代城

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[所在地] 熊本県八代市松江城町 [築城年] 1619年 [築城者] 加藤正方 [遺 構] 天守台、石垣、堀など [別 称] 白鷺城、松江城 [形 状] 平城 関ヶ原の戦い後、肥後一国の大名となった加藤清正は球磨川下流の麦島城に加藤正方を城代としました。麦島城は1619年の大地震で全壊したため、2代加藤忠広が場所を移動して築かせたのが八代城です。城は一国一城体制でも継続され、加藤氏改易の後は細川忠興が入城、その後筆頭家老の松井氏が城代を務めました。 往時の八代城は本丸北西隅に四重天守と二重の小天守を持ち、方形の曲輪を組み合わせた近世城郭でした。城の建物は現存していませんが、天守台や本丸、北の丸の石垣と水堀が現存しています。本丸跡は現在八代宮となっています。八代城の見どころは石垣で、特に大天守台の石垣は創建時のもので、 熊本城と同様の緩やかで美しい曲線を描いています。また、 規模は10間×11間と、南方の島津領国を抑えるに相応しく規模です。 2026年の令和8年熊本地震で石垣の崩落など大きな被害を受けています。 本丸大天守台 本丸大天守台 本丸大天守台と水堀 本丸大天守台(左)と小天守台(右) 本丸西側の石垣 本丸南西側の石垣と水堀 本丸南側の石垣と月見櫓跡 令和8年熊本地震で崩落した本丸南側の石垣 江戸時代の復元模型(イラスト) 八代城跡説明板 本丸跡(八代宮) 宝形櫓跡の石垣 欄干橋と表枡形虎口 表枡形虎口横の磨櫓跡石垣 表枡形虎口(頬当御門櫓跡) 表枡形虎口(頬当御門櫓跡)の石垣 令和8年熊本地震で崩落した本丸三階櫓跡の石垣 本丸絡手口跡

川尻城

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[所在地] 熊本県熊本市南区川尻 [築城年] 1190年 [築城者] 河尻氏、甲斐氏、嘉悦氏 [遺 構] なし [別 称] 河尻城、川尻外城 [形 状] 平城 川尻城は12世紀頃、河尻三郎実明によって築かれたとされます。川尻港を利用した交易により繁栄したようです。肥後国が加藤清正の所領となったのち、嘉悦飛騨守が城代を務めていますが、一国一城令により廃城となります。 城は南側の加勢川を天然の堀とした平城でしたが、詳細はよくわかりません。現在は川尻公園にある古城神社にかつて城があったことの碑がたっています。 古城神社の西側には 熊本藩の川尻米蔵跡があります。江戸時代、 川尻地区は肥後国の年貢米を集積する水運の拠点として大いに栄えました。2023年に外城蔵跡として 整備されており必見の建物です。 古城神社 古城神社 古城神社にたつ碑 熊本藩川尻米蔵 熊本藩川尻米蔵軒下 熊本藩川尻米蔵内部

熊本城

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[所在地] 熊本県熊本市中央区本丸、二の丸 [築城年] 1601年 [築城者] 加藤清正 [遺 構] 宇土櫓など13棟が 国の重要文化財( 櫓11棟 、門1棟、塀1棟 )、石垣、堀など [別 称] 銀杏城 [形 状] 平山城 現在の熊本城の前身として、15世紀に出田氏が茶臼山に千葉城を築き、鹿子木氏が南西麓に隈本城を築いたと言われます。本格的な城郭が築かれるのは1588年に隈本入りした加藤清正による築城です。坪井川と井芹川の流れを変え、城の内堀とし、白川を外堀としました。関ヶ原の戦い後に肥後52万石の太守に相応しい大城郭として完成し、熊本城と改めます。加藤氏は二代・忠広の時代に改易され、その後は細川氏が肥後熊本藩主となり、明治維新まで続きます。1877年の西南戦争において、西郷軍による攻撃を受けますが、熊本鎮台は52日間にわたる籠城戦を耐え抜き、城の防御力を証明しました。しかし、この時に天守や本丸御殿などが焼失してしまいます。 現在も宇土櫓を始めとする櫓群や、戦後再建された天守群などに加え、清正流と称される高石垣など見どころの多い熊本城ですが、2016年の熊本地震による被害、そして2026年の令和8年熊本地震で大きな被害を受け、現在復旧工事中の段階です。 大天守と小天守 二の丸広場からみた大天守・小天守と復旧工事中の宇土櫓 令和8年熊本地震で崩壊した西出丸の石垣 西出丸の堀 西出丸の石垣 西出丸の未申櫓 復旧工事中の西大手櫓門の石垣 復旧工事中の西出丸の石垣 復旧工事中の宇土櫓 復旧工事中の宇土櫓石垣 加藤神社 大天守・小天守と崩落した石垣 長塀

落合陣屋

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[所在地] 埼玉県さいたま市中央区下落合 [築城年] 鎌倉時代前期 [築城者] 安達盛長、渋川氏 [遺 構] なし [別 称] なし [形 状] 陣屋 落合陣屋は鎌倉時代の武将で、源頼朝の家臣であった安達盛長の居館であり、南北朝時代には蕨城主・渋川氏の居館・出城であったとされています。 現在の東光寺付近が陣屋跡とされていますが、宅地化により遺構はありません。寺の境内は周辺の道路より少し高台になっており、居館があったらしいことがわかります。 陣屋跡とされる東光寺 東光寺の落合霊園前 周辺道路よりやや高台となっている

山形城

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[所在地] 山形県山形市霞城町 [築城年] 1357年、1592年、1622年 [築城者] 斯波兼頼、最上義光、鳥居忠政 [遺 構] 石垣、堀など [別 称] 霞城、霞ヶ城、最上城、大山城 [形 状] 平城 南北朝時代に斯波兼頼によって築かれ、戦国期に斯波氏の子孫である最上氏が城主となります。関ヶ原の戦い後、最上義光は出羽国57万石の拠点として城の大改修を行います。最上氏が改易された後は鳥居忠政が20万石で入り、更に改修を行いますが、その後は小規模の譜代大名が代々城主となり、明治を迎えます。 山形城は三重の堀に囲まれた完全な平城でその規模は東北随一です。 現在も本丸、二の丸の水堀、土塁、石垣などが良好に現存しています。特に二の丸の東西南北4ヶ所の虎口の石垣は必見です。また、平成3年に二の丸東大手門(櫓門、高麗門)が、平成15年に本丸一文字門石垣、平成17年に大手橋、平成26年に高麗門、枡形土塀が復元されるなど、 城の整備が順次進められています。 二の丸東大手門の櫓門 二の丸東大手門の櫓門 二の丸東大手門の櫓門内部 二の丸東大手門の高麗門(左)と櫓門(右) 二の丸東大手門の高麗門 二の丸東大手門の多門櫓(左)と高麗門(右) 二の丸東大手門付近の水堀 最上義光騎馬像 本丸一文字門前の大手橋と高麗門 本丸一文字門前の大手橋と空堀 本丸一文字門の高麗門 本丸一文字門横の石垣 本丸一文字門の高麗門(城内側) 本丸一文字門の枡形虎口 本丸西側の土塁と空堀 二の丸南大手門跡 二の丸南大手門跡付近の水堀 二の丸南大手門跡の石垣 二の丸南大手門跡の枡形虎口 二の丸南大手門跡の雁木