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富士塚城

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★★★城のデータ★★★ [所在地] 神奈川県横浜市泉区下飯田町 [築城年] 鎌倉時代 [築城者] 飯田家義 [遺 構] なし [別 称] 飯田五郎家義館 [形 状] 平城 1180年の石橋山の戦いで敗れた源頼朝を安房に逃れさせ、その後の戦功によりこの地を与えらえた飯田家義の館とされています。城は和泉川と境川にはさまれた低丘陵上に位置します。明治時代に富士塚から五輪塔や納骨壺が出土したといわれます。 現在宅地造成により城の遺構は見当たりませんが、富士塚公園の一角に城碑と説明板がたてられています。 富士塚公園 富士塚城址 現地の説明板

四谷見附

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★★★城のデータ★★★ [所在地] 東京都新宿区四谷 [築城年] 1639年 [築城者] 徳川幕府 [遺 構] 石垣 [別 称] 江戸城四谷御門 [形 状] 見附 四谷見附は江戸城の外堀に作られた三十六見附と呼ばれる枡形城門の1つです。四谷見附の枡形と石垣は長州藩の毛利家によって築かれました。 明治維新後、枡形と石垣は撤去されましたが、JR四ツ谷駅前に見附北側の石垣が現存しており、南側の石垣は四ツ谷駅舎の下部に保存されています。 枡形石垣 枡形石垣 枡形石垣に使用された石材 四ツ谷駅舎の下部に残る石垣

寺尾城

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★★★城のデータ★★★ [所在地] 横浜市鶴見区馬場 [築城年] 1436年頃 [築城者] 諏訪氏 [遺 構] 曲輪、土塁、空堀 [別 称] 馬場城 [形 状] 丘城 鶴見区の西部・横浜市立東高等学校付近の高台に位置します。かつては沼に囲まれた要害の地だったようです。1436年頃に信濃の諏訪氏の支流が築いたとされ、その後諏訪氏は北条氏の家臣となっています。1569年の武田信玄による小田原攻撃の際に寺尾城は落城しています。 現在は宅地化が進行しており、城郭の全貌はつかめませんが、住宅街の一角に寺尾城址と説明板がたっており、「馬場」、「諏訪坂」などの地名が当時の痕跡をとどめています。また、かつての主曲輪は現在殿山公園として整備されており、竪堀の痕跡を一部確認することができます。 寺尾城址付近 寺尾城址 土塁・竪堀が残る殿山公園 (樹木が繁茂していてよくわかりませんでした) 土塁・竪堀が残る殿山公園 寺尾城址 説明板

篠原城

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★★★城のデータ★★★ [所在地] 横浜市港北区篠原町、大豆戸町 [築城年] 15世紀? [築城者] 金子出雲守 [遺 構] 曲輪、土塁、横堀(空堀) [別 称] 金子城 [形 状] 平山城 蛇行する鶴見川南東の台地端に位置し、正覚院の南東にあたります。新横浜駅に程近い場所にあります。北条氏家臣で玉縄衆の金子出雲守が小机城の支城として築いたといわれます。 頂部に主郭、北西に腰曲輪、東に延びる尾根上に4つの曲輪がありましたが、宅地開発で遺構は失われ、主郭の一部が残っています。現在は篠原城址緑地として整備されていますが、フェンスで史跡範囲の立ち入りが制限されており、外側から主郭の土塁、横堀(空堀)、土橋などを確認することができます。 曲輪跡、横堀(空堀) 城址案内図 横堀(空堀)と土橋跡 土塁跡 篠原城があった城山

大豆戸城

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★★★城のデータ★★★ [所在地] 横浜市港北区大豆戸町 [築城年] 天文年間(1532~55)ごろ [築城者] 小幡氏 [遺 構] なし [別 称] 小幡泰久館  [形 状] 平山城 城は蛇行する鶴見川南方の眺望のきく高台に位置し、現在の本乗寺裏手の丘陵一帯にあたるといわれますが、現在は宅地化され遺構は残りません。 天文年間ごろ、北条氏家臣の小幡泰久とその子・正勝の居城であり、隣接する篠原城(金子城)とともに小机城の支城であったと想定されています。 城跡付近 城跡付近から遠望

獅子ヶ谷城

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★★★城のデータ★★★ [所在地] 横浜市港北区師岡町、鶴見区獅子ヶ谷 [築城年] 慶長年間(1595~1615年) [築城者] 小田切氏 [遺 構] 曲輪、土塁?、空堀? [別 称] 獅子ヶ谷殿山 [形 状] 平山城 鶴見川の南側、標高約40mの独立丘陵の殿山に築かれた城郭です。横浜市の指定文化財になっている旧横溝家住宅の裏山にあたります。慶長年間に旗本の小田切氏が築き、江戸移住の際に獅子ヶ谷村名主の横溝氏に譲ったとされます。 殿山山頂に約50m四方の単郭の曲輪跡があり、公園として整備されています。山頂からは周囲の眺望がよく効きます。旧横溝家住宅は主屋、表門、蔵などが保存整備されていて、江戸時代の豪農(名主)の生活ぶりが想像できます。 旧横溝家住宅・主屋 旧横溝家住宅・表門(背後の山が殿山) 殿山(師岡町梅の丘公園から) 曲輪跡とされる殿山山頂

淵野辺城

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★★★城のデータ★★★ [所在地] 神奈川県相模原市中央区淵野辺本町 [築城年] 南北朝時代 [築城者] 淵辺義博 [遺 構] なし [別 称] 淵辺義博館 [形 状] 平城 南北朝時代、足利直義家臣の淵辺義博の居館跡と伝わります。境川西岸の低段丘上に位置します。1335年の中先代の乱において鎌倉で護良親王を殺害し(奥州に逃した伝承も)、駿河の手越河原の戦いで討ち死にしたと言われます。 江戸時代まで馬場や土塁があったようですが、現在は遺構はなく、淵辺義博居館跡の碑と顕彰碑が立つのみです。 淵辺伊賀守義博居館跡の碑 居館跡の碑と顕彰碑 顕彰碑

岩村田城

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★★★城のデータ★★★ [所在地] 長野県佐久市岩村田 [築城年] 1864年 [築城者] 内藤正誠 [遺 構] 土塁 [別 称] 藤ヶ城 [形 状] 平山城 1703年岩村田に入り、大名に昇格した内藤氏が1864年に築城を始めましたが、明治維新を迎え城は未完成に終わりました。城は湯川の崖線に囲まれた要害の地で、西洋の築城法を取り入れた縄張だったようです。中央に正方形の本丸、東西方向に曲輪と四隅に櫓を築こうとしていたようです。城跡は現在岩村田公園(招魂社、鵲稲荷神社)、岩村田小学校となっています。平成30年の発掘調査で岩村田小学校の土塁が調査され、説明板とともに保存されています。 藤ヶ城(岩村田城)址 藤ヶ城(岩村田城)址と土塁 岩村田城址 岩村田公園 (招魂社、鵲稲荷神社)

渋谷城

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★★★城のデータ★★★ [所在地] 東京都渋谷区渋谷 [築城年] 平安時代末期(1051年頃) [築城者] 河崎基家 [遺 構] 石垣の一部 [別 称] 金王丸城 [形 状] 丘城 後三年の役の後、源義家についた恩賞により付近の所領を与えられた河崎基家によって築城されたとされます。東に鎌倉街道、西に渋谷川が流れ、湧泉が豊富にあったといいます。1524年の北条氏綱と扇谷上杉朝興による高輪原の戦いの際、渋谷城は焼き払われ落城しました。 城跡は現在金王八幡宮境内一帯とされます。やや高台になっており、往時は付近の眺望が効いたと思われます。八幡宮境内には渋谷城砦の石が残されています。 金王八幡宮 金王八幡宮 社殿 渋谷城 砦の石 渋谷城 説明板

河崎庄司郎館

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★★★城のデータ★★★ [所在地] 東京都渋谷区渋谷 [築城年] 応保年間(1161~1163年)頃 [築城者] 河崎重国 [遺 構] なし [別 称] 妹尾氏館 [形 状] 平城 渋谷氏の祖である河崎基家が1051年に武蔵国荏原荘を領して以降、渋谷城を築いた後に、基家の孫にあたる重国(庄司郎)が渋谷城に程近い地に館を構えたとされます。 JR渋谷駅から近い傾斜地に位置しますが、現在は市街地化によりビルが立ち並んでおり、館の遺構は見当たりません。 館跡付近 館跡付近

枡形城

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★★★城のデータ★★★ [所在地] 神奈川県川崎市多摩区枡形 [築城年] 鎌倉時代初期 [築城者] 稲毛重成 [遺 構] 堀切 [別 称] なし [形 状] 山城 鎌倉時代、鎌倉の北側の守りを固めていた源頼朝重臣・稲毛重成の居城と伝わります。1504年、扇谷上杉氏と山内上杉氏との抗争で、扇谷上杉方の伊勢宗瑞が入城したとされます。 五反田川の南岸、標高約84mの枡形山の頂部に位置します。多摩丘陵の先端にあたり、四方は断崖で囲まれた要害の地です。 城跡は現在生田緑地の一部となっており、櫓風の展望施設や冠木門・板塀などが整備されています。頂部の一の曲輪は長径約150mの広さです。  櫓風の展望施設 整備された枡形門 枡形山山頂碑 枡形城址 枡形城址と多摩丘陵 説明板

石倉城

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★★★城のデータ★★★ [所在地] 群馬県前橋市石倉町 [築城年] 1485年 [築城者] 長尾憲景 [遺 構] 曲輪、土塁、空堀? [別 称] なし [形 状] 平城 石倉城は上野国守護代の長尾忠房の嫡子・憲景が1485年に築城しました。戦国時代の後期、武田氏と上杉氏との争奪の場となり、その後は北条氏が城を領有しますが、1590年の小田原攻めの際に攻められ落城しました。 城は利根川西岸にあり、前橋城の対岸に位置します。利根川沿いに本丸、二の丸、外曲輪が取り巻く縄張りでしたが、利根川の浸食により主郭部は崩落し、その他も市街地化により遺構は消滅しています。現在は石倉城二の丸公園に石碑と鳥観図(縄張図)、説明板がたち、近隣の外堀公園の名称から当時の城の規模が想像できます。 石倉城址 二の丸公園にたつ城址と鳥観図 石倉城鳥観図 説明板 外堀公園 城付近を流れる利根川

榎下城

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★★★城のデータ★★★ [所在地] 神奈川県横浜市緑区三保町 [築城年] 永享年間(1429~1441 )か [築城者] 上杉憲清 [遺 構] 曲輪、土塁、空堀など [別 称] 久保城 [形 状] 平山城 1438年の鎌倉公方・足利持氏と関東管領・上杉憲実が争った永享の乱で足利方の榎下城主・上杉憲清が破れて自害し、のちに北条氏の小机城の出城になったといわれます。慶長年間に旧城寺が建立され、現在に至っています。 本堂のある部分が二の曲輪、裏手の高台部分が一の曲輪となっており、周囲には土塁が設けられています。山門脇には桝形状の土塁も見られます。 二の曲輪跡・榎下城址 榎下城址説明板 山門脇の枡形状の土塁跡 一の曲輪跡 山田右京之進城跡碑 的場下