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水戸城

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[所在地] 茨城県水戸市三の丸他 [築城年] 12世紀頃、1593年、1625年 [築城者] 馬場氏、佐竹義宣、徳川頼房 [遺 構] 曲輪、門、土塁、空堀、藩校 [別 称] 馬場城、水府城 [形 状] 平山城 平安時代末期、馬場資幹が築いた馬場城が前身とされます。1416年上杉禅秀の乱で大掾(馬場)氏は江戸氏に敗れ、代わって江戸氏が新城主となります。1590年豊臣秀吉の小田原征伐の際、佐竹義宣は馬場城を攻め落とし、居城を水戸城とします。義宣は城と城下町の大改修を行い54万石に相応しい城郭に整備しますが、関ヶ原の戦いにより秋田へ転封となります。その後、1609年、徳川家康の11男・頼房が水戸城に入り、明治維新まで水戸徳川家35万石の居城となります。 北は那珂川、南は千波湖を擁し、台地の先端に位置する要害の地にあります。本丸、二の丸、東二の丸を連郭式につなげた連郭式で、石垣は使用されていませんが、土造りの大規模な城です。城のシンボルであった御三階櫓は戦災で失われましたが、曲輪間の圧倒的な規模の空堀、橋爪門(薬医門)、藩校の弘道館が現存しています。さらに近年大手門と二の丸角櫓が復元され、新たな水戸のシンボルとなっています。 大手門 大手門 大手門と枡形 練塀(瓦塀) 大手門(城内側から) 二の丸空堀 二の丸角櫓 二の丸角櫓 二の丸角櫓(城内側) 二の丸角櫓内部 本丸空堀(現・JR水郡線) 本丸橋爪門の枡形跡 橋爪門(薬医門) 橋爪門(薬医門) 弘道館正門 弘道館 弘道館 二大字「尊攘」 正庁・正席の間 三の丸空堀

武熊城

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[所在地] 茨城県水戸市柳町 [築城年] 延文年間(1356〜1361年) [築城者] 石川 望幹 [遺 構] なし [別 称] なし [形 状] 平城 中世初頭、水戸城主・大掾資幹の弟・石川望幹が築城したといわれます。1406年、江戸通房が水戸に進出すると城は弟・通重が入って武熊氏を称しました。1558年、佐竹義宣が水戸城を居城にした後は東義久の居城になりました。 当時は桜川右岸の台地上に築かれた南北440m、東西550mもある大規模な城だったようですが、現在は城の遺構はなく、わずかに石碑があるのみです。 武熊城跡碑 旧町名・横竹隈の碑 桜川

新井宿城

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[所在地] 東京都大田区山王 [築城年] 戦国時代 [築城者] 梶原氏? [遺 構] なし [別 称] なし [形 状] 平山城 戦国時代に北条氏の家臣であった梶原氏によって築かれたとされています。江戸時代には旗本の木原氏の領地でした。 城地は善慶寺と裏手の小高い台地にある熊野神社の境内と推定されていますが、現在遺構は確認できません。善慶寺には江戸時代に重い年貢に耐えかねて直訴しようとした農民が処刑された「新井宿義民六人衆」の墓がたっています。 善慶寺 新井宿義民六人衆の墓 熊野神社への階段 熊野神社

大平砦

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[所在地] 東京都世田谷区奥沢 [築城年] 不明 [築城者] 大平氏? [遺 構] なし [別 称] 等々力城 [形 状] 丘城 大平氏は世田谷城主・吉良氏の家臣であった大平氏の砦跡とされます。現在の奥沢小学校付近が砦跡とされていますが、遺構などは残っていないため、詳細は不明です。 奥沢小学校敷地の北側と東側は道路面から少し高くなっているので、やや高台に位置した立地だったのかもしれません。 砦跡とされる奥沢小学校 奥沢小学校正門 奥沢小学校北側

高安寺城

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[所在地] 東京都府中市片町 [築城年] 不明 [築城者] 不明 [遺 構] なし [別 称] 高安寺館、高安寺塁 [形 状] 平城 高安寺は藤原秀郷の館跡といわれ、跡地に建立された寺院を足利尊氏が安国利生の祈願所として整備しました。その後兵乱の間、たびたび将軍家の陣所となっています。現況では土塁や堀は確認されませんが、発掘調査で検出された溝と道による高安寺の防御ラインが推測されています。 高安寺の境内には江戸時代の本堂、鐘楼、明治5年に建てられた山門、秀郷稲荷社、弁慶硯の井戸などがあります。 高安寺山門 秀郷稲荷 弁慶硯の井戸 高安寺 略縁起

古渡城

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[所在地] 愛知県名古屋市中区橘 [築城年] 1534年 [築城者] 織田信秀 [遺 構] 堀跡 [別 称] なし [形 状] 平城 織田信秀が今川氏から奪った那古野城を嫡男・信長に与え、東方の今川氏に備えるために古渡城を築城しました。1548年に信秀は末森城を築いて移ったため、古渡城は廃城となりました。 城は現在の東本願寺名古屋別院周辺に位置し、古渡城址の石碑と説明板のみがあります。隣接する下茶屋公園は古渡城の堀を利用したとされています。 古渡城址 説明板 東本願寺名古屋別院

岩崎城

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[所在地] 愛知県日進市岩崎町市場 [築城年] 1538年 [築城者] 丹羽氏清 [遺 構] 曲輪、土塁、横堀、土橋、井戸跡 [別 称] なし [形 状] 平山城 松平清康(徳川家康の祖父)が守山崩れにより死去すると、本郷城主・丹羽氏清が移り住み4代続けて城主となります。その後1551年の丹羽氏の抗争である横山の戦いを経験し、1584年の小牧・長久手の戦いでは岩崎城は落城しています。 現在岩崎城址公園として整備され、空掘や土塁などが残っています。1987年に展望塔として三重四階の模擬天守が建っていますが、残念ながら史実を無視したものです。 夜間の模擬天守 (※Y氏提供写真)

塚口城

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[所在地] 兵庫県尼崎市塚口本町 [築城年] 室町時代後期 [築城者] 一向一揆勢 [遺 構] 堀、土塁 [別 称] 塚口御坊、塚口寺内 [形 状] 平城 塚口城は室町時代から戦国時代にかけて、塚口御坊と呼ばれた興正寺別院(現在は正玄寺)を中心とした寺内町です。当時は高い土塁をめぐらした外側に堀を設け、二町四方の土塁で囲われていたようで、要所に出入門があったようです。 遺構として、旧寺内町の東端と北端に祠と説明板がたっており、堀、土塁がわずかながら残っています。 東町門跡の祠 東町門跡の祠 説明板 水路として残る堀跡

御影陣屋

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[所在地] 長野県小諸市御影新田屋敷 [築城年] 1699年 [築城者] 徳川幕府 [遺 構] 代官宿舎、移築門 [別 称] なし [形 状] 陣屋  佐久地方の幕府直轄領(天領)を支配した陣屋跡で、1699年に臨時的なものが置かれ、佐久郡内を転々とした後、1794年に御影陣屋に戻り、以後明治維新まで存続しました。代官は勘定奉行の下に属し、普段は江戸住まいで、年に数度この地に出張し、支配役人の監督を行っていました。代官の居宅である本陣、公務を行う役所、家臣の住宅、土蔵などがありました。 現在、代官宿舎の建物が残り、代官宿所資料館として整備され、一般に開放されています。 陣屋跡 陣屋宿舎 説明板

荏田城

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[所在地] 神奈川県横浜市青葉区荏田町 [築城年] 鎌倉時代? [築城者] 荏田氏? [遺 構] 曲輪、土塁、空堀 [別 称] 荏田城山 [形 状] 山城  東急田園都市線「江田駅」に程近い、早渕川支流に囲まれた比高20mほどの小丘陵先端に築かれた城郭です。鎌倉古道と大山街道が交差する要衝の抑えであり、戦国時代には北条氏の拠点の一つとなり、小机城の支城であったようです。 主郭と西郭からなり、土塁や空堀などの遺構が比較的良好らしいのですが、大半は民有地で立入禁止になっているため、状況はよくわかりません。 城山を遠望 城山入口 (私有地のため中に入ることができません)

岩倉城

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[所在地] 愛知県岩倉市下本町城趾 [築城年] 1479年 [築城者] 織田伊勢守 [遺 構] 堀跡 [別 称] なし [形 状] 平城  織田伊勢守家当主である織田敏広によって築城されたとされます。この城を拠点に尾張上四郡を支配し、尾張下四郡を支配した織田大和守の清州城と並び重要な城でしたが、1559年織田信長に攻められ岩倉城は落城しています。小牧・長久手の戦いでは徳川家康が陣を置いています。 標高10mの低い台地上に築かれた平城で、東西104m、南北169mの規模で、二重の堀で囲まれた城でした。発掘調査で堀が発見されています。現在は岩倉城の石碑(織田伊勢守城址)と説明板が建っています。 岩倉城跡碑 織田伊勢守城址 説明板 城跡付近