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木津砦

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[所在地] 大阪府大阪市西成区出城 [築城年] 不明 [築城者] 本願寺木津門徒 [遺 構] なし [別 称] 木津城 [形 状] 平城 石山本願寺の支城の一つとして本願寺木津門徒によって築かれました。方8町の規模で、毛利氏による本願寺への兵糧搬入の際に重要な役割を果たしたとされています。 現在城の遺構は見られませんが、新今宮駅西方の出城公園が跡地といわれ、近辺には「出城」の地名が残ります。 出城公園 出城公園の銘板 出城公園

真鍋城

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[所在地] 大阪府泉大津市神明町 [築城年] 南北朝時代? [築城者] 真鍋 氏 [遺 構] なし [別 称] 眞鍋城、大津城 [形 状] 平城 南北朝時代、南朝方の真鍋主馬大夫の居城であり、天正年間(1573〜92年)に廃城になったと言われます。 城跡は現在の泉大津駅西側の旧紀州街道沿いにある南 溟寺(なんめいじ)境内にあり、かつての城の遺構は残っていませんが、寺の本堂前に城跡碑と伯太藩渡辺家の墓所があります。城の遺構ではありませんが、寺の山門と鐘楼は大変立派な建物です。 南 溟 寺鐘楼 南 溟寺山門 真鍋城址 真鍋城址と本堂

助光城

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[所在地] 愛知県名古屋市中川区助光 [築城年] 不明 [築城者] 福留氏? [遺 構] なし [別 称] なし [形 状] 平城 織田信長に仕えた福留将監の居城跡と言われます。左近将監、右近将監ともされる人物ですが、詳細は不明です。信長とともに各地を転戦し、本能寺の変で亡くなったとされます。 土之宮神明社の境内に福留将監古城跡の石碑が残ります。石碑には「是ヨリ西南壱町余」と書かれていますので、助光1丁目、2丁目のあたりに城跡があったものと考えられます。 土之宮神明社 福留将監古城跡碑

前田城

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[所在地] 愛知県名古屋市中川区前田西町 [築城年] 不明 [築城者] 前田氏 [遺 構] なし [別 称] なし [形 状] 平城 前田利家を始めとする前田氏発祥の地とされ、利家もこの城で生まれ、荒子城に移って成長したとする説があります。天正12年の長久手の合戦ののち、徳川家康の攻撃を受け落城、城主与十郎は蟹江で討死しています。 城跡は現在利家が寄進した阿弥陀如来を本尊とする速念寺になっています。山門のそばに城址跡がありますが、城の遺構は見られません。境内には最後の城主与十郎の墓等があります。 速念寺山門 前田城址 速念寺本堂 (前田利家の兜を彷彿させる) 前田与十郎の墓

潮田館

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[所在地] 神奈川県横浜市鶴見区汐入町 [築城年] 戦国時代 [築城者] 潮田光行 [遺 構] なし [別 称] なし [形 状] 平城 北条氏家臣であった潮田氏の居館跡とされています。今川氏庶流の入野将監光興の嫡子光行が潮田に移り住み潮田氏を称し、北条氏康の家臣となったようです。 現在潮田氏が開山したと伝わる光永寺が館跡とされ、かなり立派な建物がたっていますが、遺構は特に残っていません。 光永寺 光永寺 光永寺由来碑

小田殿屋敷

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[所在地] 神奈川県川崎市川崎区小田 [築城年] 不明 [築城者] 不明 [遺 構] なし [別 称] なし [形 状] 平城 現在の川崎市川崎区小田付近にあった城館で、鎌倉時代から領主の居館であったとされています。戦国時代には北条氏家臣の小菅摂津守がこの地を治めていたようです。 「殿屋敷」という地名もあったようですが、現在はなくなっています。小田公園付近が城館跡とされていますが、遺構は特に見られません。 小田公園 小田球場を遠望 小田公園

梶原氏館

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[所在地] 東京都品川区東大井 [築城年] 戦国時代 [築城者] 梶原氏 [遺 構] なし [別 称] 伝梶原氏館 [形 状] 平城 北条氏家臣・梶原氏の居館跡とされています。梶原氏は鎌倉幕府創設に貢献した梶原景時の末裔で、現在の大田区・品川区付近の馬込村を領有していました。 JR大井町駅近くの来福寺が館跡と推定されていますが、遺構は残っていません。やや高台に位置していることから選地されたものと思われます。来福寺の北側の梶原稲荷神社には、梶原景時に関する由来の説明があります。 来福寺山門 来福寺本堂 梶原稲荷神社 梶原塚稲荷祠 由来記

水戸城

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[所在地] 茨城県水戸市三の丸他 [築城年] 12世紀頃、1593年、1625年 [築城者] 馬場氏、佐竹義宣、徳川頼房 [遺 構] 曲輪、門、土塁、空堀、藩校 [別 称] 馬場城、水府城 [形 状] 平山城 平安時代末期、馬場資幹が築いた馬場城が前身とされます。1416年上杉禅秀の乱で大掾(馬場)氏は江戸氏に敗れ、代わって江戸氏が新城主となります。1590年豊臣秀吉の小田原征伐の際、佐竹義宣は馬場城を攻め落とし、居城を水戸城とします。義宣は城と城下町の大改修を行い54万石に相応しい城郭に整備しますが、関ヶ原の戦いにより秋田へ転封となります。その後、1609年、徳川家康の11男・頼房が水戸城に入り、明治維新まで水戸徳川家35万石の居城となります。 北は那珂川、南は千波湖を擁し、台地の先端に位置する要害の地にあります。本丸、二の丸、東二の丸を連郭式につなげた連郭式で、石垣は使用されていませんが、土造りの大規模な城です。城のシンボルであった御三階櫓は戦災で失われましたが、曲輪間の圧倒的な規模の空堀、橋爪門(薬医門)、藩校の弘道館が現存しています。さらに近年大手門と二の丸角櫓が復元され、新たな水戸のシンボルとなっています。 大手門 大手門 大手門と枡形 練塀(瓦塀) 大手門(城内側から) 二の丸空堀 二の丸角櫓 二の丸角櫓 二の丸角櫓(城内側) 二の丸角櫓内部 本丸空堀(現・JR水郡線) 本丸橋爪門の枡形跡 橋爪門(薬医門) 橋爪門(薬医門) 弘道館正門 弘道館 弘道館 二大字「尊攘」 正庁・正席の間 三の丸空堀

武熊城

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[所在地] 茨城県水戸市柳町 [築城年] 延文年間(1356〜1361年) [築城者] 石川 望幹 [遺 構] なし [別 称] なし [形 状] 平城 中世初頭、水戸城主・大掾資幹の弟・石川望幹が築城したといわれます。1406年、江戸通房が水戸に進出すると城は弟・通重が入って武熊氏を称しました。1558年、佐竹義宣が水戸城を居城にした後は東義久の居城になりました。 当時は桜川右岸の台地上に築かれた南北440m、東西550mもある大規模な城だったようですが、現在は城の遺構はなく、わずかに石碑があるのみです。 武熊城跡碑 旧町名・横竹隈の碑 桜川

新井宿城

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[所在地] 東京都大田区山王 [築城年] 戦国時代 [築城者] 梶原氏? [遺 構] なし [別 称] なし [形 状] 平山城 戦国時代に北条氏の家臣であった梶原氏によって築かれたとされています。江戸時代には旗本の木原氏の領地でした。 城地は善慶寺と裏手の小高い台地にある熊野神社の境内と推定されていますが、現在遺構は確認できません。善慶寺には江戸時代に重い年貢に耐えかねて直訴しようとした農民が処刑された「新井宿義民六人衆」の墓がたっています。 善慶寺 新井宿義民六人衆の墓 熊野神社への階段 熊野神社