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淀古城

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★★★城のデータ★★★ [所在地] 京都府京都市伏見区納所北城堀 [築城年] 室町時代中期 [築城者] 畠山政長、豊臣秀吉 [遺 構] なし [別 称] 藤岡城 [形 状] 平城 1478年に山城守護所として淀城の名が初めて記録されています。細川政元が薬師寺元一を破った戦い、織田信長が足利義昭を破った戦いなど、たびたび戦闘の舞台となっています。1589年に豊臣秀吉の弟・秀長が淀古城を改修し、秀吉の側室茶々が鶴松を産んだ城として有名ですが、1595年に豊臣秀次が切腹すると、淀古城は廃城となります。 現在は市街地化されているため、遺構は全くなく、妙教寺境内に石碑が立つのみで、わずかに「城堀」という地名が面影を伝えています。 城跡の 妙教寺境内 淀古城址碑 妙教寺山門

淀城

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★★★城のデータ★★★ [所在地] 京都府京都市伏見区淀本町 [築城年] 1623年 [築城者] 松平定綱 [遺 構] 石垣、堀など [別 称] てん城 [形 状] 平城 1623年に徳川秀忠の命により松平定綱が木津川が淀川へ流れ込む地に築城しました。豊臣秀吉が側室茶々のために築いた淀古城からは500m南方にあり、二条城から運ばれた五重天守とその四隅に小型の二重櫓が囲む特異な天守形式の城郭でした。1723年に稲葉氏が10万石で入り、幕末まで稲葉氏の藩主が続きました。 現在は京阪鉄道開設により城跡の大部分が消滅しましたが、本丸跡と石垣、西側と南側の水堀が残っています。淀城の一番の見どころは五重天守が建っていた天守台の石垣で、じつに巨大で見ごたえがあります。ただ、天守台の穴蔵に入れないのが残念でした。三重櫓が建っていた丹波櫓台の石垣を始め、本丸各所の石垣、幅広い水堀などから往時はかなり堅固な城郭だったことがわかります。 天守台の石垣 本丸石垣と天守台 天守台の石垣 天守台の石垣隅部 城内から見た天守台(入口付近) 城内から見た天守台 城内から見た天守台 本丸内と天守台 本丸西面石垣と水堀 丹波櫓の石垣 淀城址碑 本丸南面石垣と水堀 本丸石垣 現地の説明板(淀城鳥瞰図)

勝龍寺城

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★★★城のデータ★★★ [所在地] 京都府長岡京市勝龍寺 [築城年] 室町時代中期 [築城者] 畠山義就 [遺 構] 土塁、空堀、石垣など [別 称] 小龍寺城 [形 状] 平城 かつて南北朝時代に細川頼春が築いたと言われていましたが、今日では 畠山義就が乙訓群の郡代役所として築城したとされます 。その後松永久秀や三好三人衆の属城となっていましたが、上洛した織田信長の前に陥落し、城は細川藤孝に与えられます。藤孝時代に二重の堀に囲まれ、天守(殿主)に相当する建物も築かれます。藤孝嫡男の忠興と明智光秀の娘・玉が結婚したのもこの城です。1582年、本能寺の変で光秀の城となりますが、山崎の戦い後に羽柴秀吉が入ります。その後城は空き城となり、1633年に永井直清が山城長岡藩を立藩しますが、城の北方に新たに長岡陣屋を築かれ、永井氏が転封されると城は廃城となります。 現在勝龍寺城公園内には本丸の土塁、水堀を始め、模擬塀・櫓、城門などが整備されています。また、神足神社内には外郭部の土塁・空堀が整備されています。 本丸の水堀と模擬塀 本丸の模擬隅櫓 本丸の模擬城門 細川忠興と玉像 本丸内の土塁 本丸北門跡の石垣 本丸北門跡の枡形虎口 殿主跡 沼田丸跡 神足神社内の土塁・空堀 神足神社内の土塁・空堀 神足神社内の空堀にかかる土橋 長岡陣屋跡

勝沼氏館

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★★★城のデータ★★★ [所在地] 山梨県甲州市勝沼町勝沼 [築城年] 15世紀ごろ [築城者] 勝沼氏 [遺 構] 土塁、堀など [別 称] なし [形 状] 城館 城館は15世紀には存在していたと思われますが、16世紀前半に武田信虎の弟信友を祖とする勝沼氏が本拠地とし、相模の北条氏への抑えとしていました 。勝沼氏は1560年に敵方に内通したことにより武田信玄によって滅ぼされたとされましたが、現在では今井氏がその後館主として治めたと考えられています。 館は内郭と外郭から構成され、内郭は二重の堀と土塁によって囲まれています。発掘調査により礎石のある建物跡が確認された他、金の精錬を行う工房の遺構なども検出された珍しい事例です。内郭および外郭のうち東郭の建物跡が平面表示されており、戦国時代の有力武将の館がわかる貴重な遺跡となっています。 内郭の土塁と空堀 内郭の土塁と空堀 内郭の北門跡 内郭の常の御座所跡 内郭の工房跡 内郭の東門木橋橋台の石垣 内郭の東門 東郭の水路と工房跡 東郭の土塁 東郭の家臣屋敷跡 東郭の家臣屋敷跡(内部)