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越ヶ谷御殿

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[所在地] 埼玉県越谷市御殿町 [築城年] 1604年 [築城者] 徳川家康 [遺 構] なし [別 称] - [形 状] 御殿 越ヶ谷御殿は越ヶ谷郷の会田出羽資久の陣屋があった場所でしたが、徳川家康により増林にあった御茶屋御殿を移したものといわれます。家康や二代将軍の秀忠もしばしば訪れて泊り、鷹狩をしたとされます。その後、1657年明暦の大火で江戸城が焼失したため、将軍の仮殿として江戸城二の丸に移されました。現在は越ヶ谷御殿跡の石碑と説明板が立つのみです。 石碑 石碑と説明板

鎌倉

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[所在地] 神奈川県鎌倉市 [築城年] 13世紀以降 [築城者] 鎌倉幕府 [遺 構] 切通し、堀切、竪堀、土塁など [別 称] - [形 状] 城塞都市 鎌倉は河内源氏の源頼義が鶴岡八幡宮を創建し、源頼朝が武家政権を創設した地です。南は海に面し、三方が丘陵で囲まれた要害の地であり、攻め難く守りやすい地形でした。平野部では北の 鶴岡八幡宮から南に延びた若宮大路を中心に街区が形成され、幕府や御家人たちの屋敷などがありました。鎌倉への出入口は七つの切通しがあり、周辺には堀切や竪堀などの防御遺構が見られます。 鶴岡八幡宮入口・若宮大路 鶴岡八幡宮 鶴岡八幡宮 畠山重忠邸跡 大倉幕府跡 源頼朝墓

村岡城

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[所在地] 神奈川県藤沢市村岡東 [築城年] 平安時代末期 [築城者] 平良文 [遺 構] なし [別 称] 高谷砦 [形 状] 山城 神奈川県藤沢市の村岡城です。坂東八平氏の祖とされる平良文の居城と言われます。戦国時代には玉縄城の支城として高谷砦が築かれ、1590年北条氏の滅亡とともに廃城となりました。現在村岡城址公園として整備されていますが、周辺は宅地化により遺構は残っていません。城址公園には日本海軍の英雄・東郷平八郎が書いた村岡城の石碑と忠魂碑が建てられています。 村岡城址公園入口 村岡城址公園 忠魂碑 村岡城址の碑 高台となっている村岡城址公園

二伝寺砦

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[所在地] 神奈川県藤沢市渡内 [築城年] 戦国時代 [築城者] 伊勢宗瑞 [遺 構] 土塁、堀切 [別 称] - [形 状] 山城 二伝寺砦は、玉縄城の支城として伊勢宗瑞(北条早雲)によって築かれたと言われます。当時は玉縄城から尾根続きで加えて旧鎌倉街道に沿っていたので、玉縄城防衛の拠点として重視されますが、1590年の北条氏の滅亡とともに廃城となりました。城地は1505年、玉縄城主の北条氏時によって開山された二伝寺があり、寺を利用して砦としたものと思われます。 境内には玉縄城開城後に城を守護した松平正次一族の墓、坂東平氏の始祖となった初代・平良文、二代・忠光、三代・忠通の塚があります。 二伝寺山門 二伝寺本堂 松平正次一族の墓 平良文公墓前碑 平良文公の塚

玉縄城

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[所在地] 神奈川県鎌倉市城廻 [築城年] 1512年 [築城者] 伊勢宗瑞 [遺 構] 土塁、堀切、諏訪壇など [別 称] 甘縄城 [形 状] 山城 玉縄城は、小田原城を奪取した伊勢宗瑞(北条早雲)が三浦氏を牽制するために築いた東相模最大の軍事拠点です。難攻不落の要害として知られ、上杉氏や里見氏など度々攻められるも撃退に成功しています。歴代城主の玉縄北条氏は北条氏最大の軍団と言われます。1590年、豊臣秀吉の小田原攻めで徳川家康の説得により開城しています。 現在本丸跡は清泉女学園の敷地となっており、宅地造成により遺構がほとんど残っていませんが、本丸最後部の諏訪壇、七曲(折れ曲がった急坂)、太鼓櫓跡など、往時をしのぶことができます。 玉縄城址の碑付近 七曲 七曲 太鼓櫓跡 大手門址 玉縄城址の碑 ふあん坂 玉縄首塚

古間木城

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[所在地] 茨城県常総市古間木 [築城年] 不明 [築城者] 渡邊氏 [遺 構] 土塁、堀跡 [別 称] - [形 状] 平城 城は鬼怒川の西岸に位置し、かつては周囲を沼が囲む要害の地にあり、水運にも恵まれていました。結城氏の家臣多賀氏に属した渡邊氏の居城とされ、結城氏と小田氏の攻防が展開されました。 城跡は城主であった渡邊氏の末裔である渡辺食品の入口に記念碑が建てられており、土塁や堀跡が残っています。 土塁・堀跡 古間木城の略図 城址記念碑 渡辺食品入口付近の土塁跡 古間木城周辺

因島水軍城

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[所在地] 広島県尾道市因島中庄町 ※実際に存在した城郭ではないため省略 [築城年] - [築城者] - [遺 構] - [別 称] - [形 状] - 広島県尾道市の因島水軍城です。昭和58年に築城された水軍城で、村上水軍のふるさととして知られる因島に相応しいものと、歴史家の奈良本辰也氏監修により再現されたものです(実際に存在した城郭ではありません)。 櫓風の展望台、水軍資料館、展示室が公開されています。水軍資料館には貴重な品が展示されています。水軍城からは実際に村上水軍が拠点とした青陰城などを遠望することができます。 櫓風の展望台   麓から水軍城を見る 櫓風の展望台 水軍資料館 村上水軍の船模型 青陰城を遠望

鞆城

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[所在地] 広島県福山市鞆町後地 [築城年] 1576年 [築城者] 毛利氏 [遺 構] 石垣 [別 称] - [形 状] 平山城 鞆城は1576年に織田信長に追放された足利義昭を迎えた毛利氏によって築かれました。関ヶ原の戦い後、安芸・備後の領主となった福島正則が城郭を整備し天守も建てられたと言われます。1609年に廃城となり、江戸時代を通して町奉行が置かれました。 現在本丸跡は鞆の浦民俗資料館が建ち、建設時の発掘調査により石垣が確認され、石垣の復元整備が行われました。石垣には刻印を随所に確認することができます。 本丸復元石垣 本丸復元石垣 石垣刻印 本丸復元石垣 鞆の浦歴史民俗資料館 石垣の石材 鞆港を望む

地黄陣屋

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[所在地] 大阪府豊能郡能勢町地黄 [築城年] 1602年 [築城者] 能勢頼次 [遺 構] 大手門跡、石垣 [別 称] 地黄城、丸山新城 [形 状] 平城 源頼光の子・源頼国が能勢の地に入り、丸山城を築いて能勢氏を称しました。22代の能勢頼次は一時豊臣秀吉に所領を没収されますが、関ヶ原の戦いで功績を挙げ、徳川家康によって旧領を安堵されました。その際、丸山城から移り新たに新城を築いたのが地黄陣屋です。 現在も石垣が良好に残っています。旗本陣屋の石垣としては規模が大きく、大手の石垣は枡形となっていて屈曲する構造になっています。 大手枡形の石垣 西側石垣 西側石垣 南西側の石垣 陣屋跡 能勢氏故城址 北側石垣